2020年8月16日

雑記

 ■教育の目的について

人格の形成 平和的民主的国家の形成者 心身共に健康な国民の育成を期して行う

 以前から教育の目的がすり替わっていることは言われていたが,最近はさらにひどくなっているような気がする。社会への適応や社会に出る前の準備だとか・・・言っていることは正しいのだが,なんだがしっくりこない。そもそも現代社会から隔離されているはずの学校でなぜ社会に適応することを目的にする必要があるのか。学校に求められるものについて話をする時,そんな意見を聞く場面が多くなってきた。

 冒頭に書いた文章は教育基本法1条の内容をまとめたものだ。これも僕の考えなのだが,学校は社会を変えるためにもあるではないだろうか。社会を作り出すのは目の前の子ども達なのである。社会に取り込むというよりは社会に対して視点を増やすことが必要だと思う。「社会に適応するための学校」という位置づけは,僕にとって手段が目的となっている現象に思える。このままでは本来の学校の意義が失われてしまうのではなかろうか。

 そもそも学校の始まりとは何だろう。学校の始まりについては諸説あるとして,学問の場としてはっきり定義された最初の学校はプラトンによるアカデメイアが有名である。プラトンはソクラテスの死をきっかけに学校の必要性を感じたとも言われている。ソクラテスは社会を変えるために大人に訴えかけた。それには賛同するものも多かったが残念ながら権力に刃向かう人物として最後には毒を飲むことになった。「社会を変えるためには子どもから」というプラトンの意向からアカデメイアができたという説は学校の意義をしっかりと今に教えている。

 そう。学校には社会を変える力があるはずなんだ。この力が失われているだけなんだ。確かに社会に身につく技術や考えをもつことは大切だ。しかしながら,学校が全てそのような社会の仕組みにとらわれてるだけの場所になっているのもなんとなく悲しい。

 今,全ての業種や仕事は本来の力を失っているのかもしれない。そんなことも踏まえて僕はよく仕事について考えるようになった。職場や知人と話すと,多くの人が仕事に対する価値観が変わり始めていることに気付く。人生という大きなくくりが再考され,仕事に求めるもの,何を大切にするかという価値観が大きく変わり始めているのかもしれない。

 一つ言えることは,学校にできること,学校でできることを見極める大事な節目にあるということだ。新しい可能性も探していく必要もありそうだ。僕はこの仕事の可能性を信じている。確かに学校にも変化が必要だと思う。でも正直こういったのを外部から言われるはもう飽きた。だから僕は現場から発信する人間になっていきたい。