2020年7月18日

Antimaterialism

今回紹介する映画
デビット・フィンチャーの「ファイトクラブ」
映像もすばらしいが,今回は原作著者のパラニュークの視点を書きたい。

ネタバレ解説】映画『ファイト・クラブ』製作秘話&伏線・ラストシーン ...
過激な描写によって賛否がはっきりする映画だと思う。
映画を見る前に準備することは,この映画のもつ痛烈な社会批判だ。現代社会に対して,皮肉とユーモアでどんどんたたみかけてくる。
 物語の序盤から主人公が医者から不眠症をあしらわれたことをきっかけに,本当の苦しみと悩みを知るためにセミナーに訪れるという設定。こういったブラックユーモアの連続が視聴者の思考設定を狂わせる。

 この映画が公開された98年は,スターバックスやイケアそしてクリスピー・クリームドーナッツなど,当時日本ではほとんど浸透していなかった。これらの会社が当たり前のようにすでに出てきているところ,そして,こういったグローバル化がもたらす社会の画一化に対してすでに警鐘を鳴らしていている点や,これらがほぼ現実となっていることも考えると,現代社会に対する問題提起として,とても素晴らしい。

 他にも様々な描写があるが,僕は特にantimaterialism  (反物質至上主義)についての言及が好きだ。「モノに支配されること」に対して批判するタイラー。いつの時代にもこれは永遠のテーマだと思う。僕もアマゾンでショッピングをする時,必要か必要じゃないかとか,値段とか噂とか…。そんなことを考える時間があまりにも多すぎて嫌になることがある。現代はミニマリストなんていうモノに固執しない人々も出てきていて,この映画が訴えているものが現実となっているのかもしれない。

でも実はこのストーリー,antimaterialism自体も同時に批判している。
そもそも,モノには物質以上の権威が備わっており。個性表現の役割をもたせることができる。モノがもたらす権威までも否定した時。極端に言えば人間がモノによってもたらせる権威を除去し,人格(パーソナリティ)を無くした姿が描かれている。それが物語の後半にタイラーがつくりだす組織だ。この組織では,権威を否定し,命の価値も無にルール化される。映画では「名前」までもが否定されていた。この組織はモノに支配された人間と同様に,人間性を失った集団として描写されている。

つまり「モノや権威に支配されること」と「モノや権威から開放されること」はどちらも人間疎外につながる可能性があるということだ。
「支配」や「開放」などに囚われずに自分の意志と人格を尊重すること,モノがもつ「本質」と「権威」を見極めることがいかに大切であるかを教えてくれる。この辺りは普遍的なテーマなのでいつの時代にも魅力的な映画である理由が分かる。

2015年「ファイトクラブ2」がコミックで販売された。パラニュークの思想がさらに全面に表現され,前作と同様現代に対する警鐘やメッセージ性は色濃く表現されている。これまたパンチの効く作品だ。パラニュークが大好きな人のためにつくられたような内容で,複雑な展開も大衆受けは見込めない。もし映画化されても前作を超えるものはつくれないと思う。

ショッピングの増加とミニマリストなどのantimateriarismが再燃されるなか,もう一度人間性について考えるきっかけとなった。

2020年7月15日

不登校研修会

 今回の講習会は,コロナ禍における生徒・児童が感じる不安がテーマだった。冒頭では「休校中と学校再開後の子どもの変容について」問われ,恥ずかしながらそんなこと全く考えていなかった僕は,すぐにこの一ヶ月を振り返った。とにかく通常の授業へシフトすることしか考えず,日常を取り戻そうという気持ちでいっぱいだったのが本音である。今でもコロナに関する不安は現在進行形で,いつ児童生徒がコロナに感染するかわからないことは事実である。やもすれば休校になることも視野に入れながら綱渡りと手探りの生活を送っている。コロナへの不安が続いている点からも,子どもに直接与える影響についてはもっと長期的な見方が必要だと思う。
実際の現場では,子どもの心理的変化が見られたとしても,それらがコロナの因果関係があるのかは個人的には判断が難しいところだ。本当の変化はここからといったところだろうか。

  とはいうものの,休校が開けてから一ヶ月経つ。生徒がきちんとスタートが切れているかを考える視点は確かに必要だった。今回の講習会はそれを振り返るよいきっかけになったと言えよう。

内容としては
■休校中子ども達は結局何をしていたのか
 ①全般
  ・家庭の力の差が浮き彫りになった点,ゲームの動画配信が静かなブーム,様々な工夫で友だちと会うなど
 ②不登校児童・生徒
  ・友だちと日中に連絡がとりやすくなった,休憩・休息の時間にとらえた子どもいた,安心感を得た生徒も,特に変わらない生活を送ったなど 
■授業が再開されて
 ①全般
  ・小1と中1は苦しい。新しい授業形式に困惑。授業優先のカリキュラム編成。
 ②不登校
  ・来れるようになった生徒もいた。
■先行きの見えない点
 ①全般
  ・行事がなくなったことについて,部活がなくなったこと,慌てる大人をたくさん見た。政策の不透明さ,大人への不信,世界や社会が一変して変わることへワクワクしている子もいた。
 ②不登校
  ・あまり変わらない
 終盤では,教員のストレスについてなど論点が変わるところもあったが,確かに教員のストレスがもたらす子どもへの影響もあるのかもしれない。講演者側はそれらも読み取っていたのだろう。
  僕はは大丈夫だと思っていたらそれもまた怖いことだと反省した。

2020年7月13日

雑記

伝えたのか伝わったのか。
感受性が強い人ならさておき。人に伝えるのは難しい。聞いた時は良しとして,記憶に残りにくいものだ。

以前は話の長い人が多かった気がする。学校でも家族でも,内容がまとまってない話を聞くことが多かった。
僕の場合,父の話はとくに長かった。ラジオを作るまでには,まずラジオの周波数,磁力などの仕組みから話しだす。肝心の工作の楽しみを味わうまでに時間がかかった。でも聞かないと作らせてくれない。モーターで木製の小型のバイクをつくる時も、ロータス123で単純な計算式を入力をするときでも僕は頑張って父の話を聞いた。最後まで話しを聞くことで楽しみの作業を行うができたからだ。

中学校では両親と離れ,大人の話を聞くことがさらに多くなった。次第に長い話というものは当たり前に思うようになった。話の後にきっとご褒美があるのだろうと期待し,集中して耳を傾ける。見返りはどうであれ,当時聞かされる話はどんな話も純粋に受け入れていたような気がする。
確かにつまらない話だったのかもしれない。でも,僕はとにかく最後まで聞いてみようという気持ちもあったし,話によっては結局何が言いたいんだろう,といった要約みたいなものを頭の中でつくるときもあった。とりあえず聞いておこうという姿勢が高校生にもなると当たり前になってきた。

もちろん寝てしまったこともある。だがその度に申し訳ないという気持ちと,話を聞き逃したことがもったいないという気持ちでいっぱいだった記憶がある。

そもそも僕は以前から「この人は話が下手だ」とか「聞いてちゃいられらない」とか言ってすぐに寝るタイプではなかったと思う。今も講義などで、長い話がはじまると比較的寝てる人が多いが、幼少のころに身についた習慣は生かされている。話を聞くことで得したことがあるのかはさておき,その時間にその人とつながったような気持ちになることで今も講義に価値を見出していている。

今では考えられないが,僕はもともと話すことが苦手だった。
人前で話すと緊張して何も言えないことが多く,それは中学校でも高校でもあまり変わらなかった。だから長い話ができる人を尊敬していたところがあった。長い話が始まり,周囲が居眠りを始めても自分は起きていることが多かった。寝ていた友人の中には,話上手で饒舌な子が多く,あとでその子に話を聞くと「もう何を言うかほとんどわかったから」ということをよく言っていた。確かに僕は当時,話の流れを予測できることができなかった。そのこともあってか僕にとって話の展開はすべて新鮮に思えた。たとえ支離滅裂な内容であったとしても,話を追いかけるように思考を巡らせたことで興味や集中力が続くきっかけにもなっていた面もあった。

時は流れ,最近ではやたらとプレゼンの質が問われ,話の内容や伝え方がシステマティックになってきたと思う。抑揚,展開,問いかけのタイミング,飽きさせないための聞き手への実践や体験、聞き手同士の話合いを入れるなど,話し手は工夫をこらして内容を印象付けようと試行錯誤の時代になった。

今このわざとらしさは,僕の中で「飽き」を生んでいる。話し手の個性やキャラクターは以前よりも統制されるようになった。もちろん準備していることは本当に素晴らしいことだ。そもそも僕が最近聞いているのは不特定多数の大衆向けのものが多いわけだが,テクニックや展開の仕方はあまりにも画一化しているように見える。話の内容はますます簡潔になり,要点があまりにも絞られすぎて背景や理由付けが簡略化された講義が増えている。

話し手の能力が問われるのに対し,聞き手の力は問われない時代になったのかもしれない。
そもそも伝わるとは何なのだろうか。仮にそれが記憶に残ることを意味するものであれば前述したとおり,聞いたことなど人間はほとんど忘れるものだ。聞き手の理解の範疇におさまるもの,もしくは求める内容と話し手の伝えたい内容が偶然にも一致したものだけが記憶に残っているものだ。話が長いことは,退屈を生むにせよ理解が深まったり記憶に残るという点では,話の長さ自体にはあまり関係ないのかもしれない。
一方で,話の内容はともかく情熱や個性が理解されて聞き手が鼓舞される場合もある。新たなアイデアが浮かんだり,話のあとになんとなく前向きになっている場合もあるだろう。これらは伝わることとは別のことかも知れないが,これも話の長さと関係しているかと言われれば時と場合による。

伝えるが伝わったになる。これは偶然の産物に過ぎない。
聞き手の力,感受性,聞き手の理解が前提にある。伝わるプレゼンを追求する本が出回る現代において,話を聞く力とはいかなるものなのか,インプットを追求する機会がそもそも少ない気がする。現在に至っては,長い話から見いだせるものは殆ど皆無のように捉えられている。

こういう書き方をするとあたかも僕が聞き上手に見えてしまうが,僕も最近は人の話を聞かなくなった。ちょっと前まで人前で話せなかったあの頃の自分を忘れているのかもしれない。ラジオの作りかたを聞いたあの時のように,そのあとにご褒美があると信じてもう一度自分の聞く力について考えていくことにしよう。


2020年7月10日

雑記

昨今の教育問題を考えるとき,真っ先に取り上げられるのが不登校と外国にルーツをもつ子どもたちだ。

子どもが「社会の鏡」であるなら、これらは学校だけの問題ではなく社会構造のひずみによって生まれたものである。解決は容易ではない。対策や方針,実践と成功例も少なく文字通り手探りの対応に追われているのが現状だ。

だが、学校はそういった「罪のない」子どもを受け入れる場所である。僕はこの仕事を通じてますます社会矛盾を肌で感じるようになった。他にも貧富の差が学力の差になっている点とか、地域による子供の質の差とか言い出したらきりがない。数年で異動がある僕らの仕事は、誰しもが公教育の理想と現実の違いを目の当たりにし、困惑するものだ。

かといって悪いことだけではない。僕はこのような問題に直面した時、学校がもつ不思議な力を信じるようにもなった。
どんなに苦境の立場でも,前向きに生きている子どももいてびっくりすることがある。クラスで普通に過ごす子どもの中にも,実は家庭環境や複雑な状況だった子どもがいるのだ。

大きな違いは
その子が学校で「自分」と「仲間」を見つけ出していることだ。
この2つはかなり重要だと思う。学校だけでなく人間が社会生活を送る上で不可欠な考えだ。

僕は,最近この2つを発見させることが「教育」なのではないかと思うようになった。
学校は「教科を学ぶ場所」ではなく「自分を探す場所」であり「友達を見つける場所」なのだ。その環境作りが教師の仕事で,極端な話だがそれさえできていればいいとも思う。

こんなことを考えて,僕は今年の目標を国際理解教育・不登校児童生徒対応に設定した。
日本語教室の生徒との交流,そして市が運営する不登校児童を支援する施設にそれぞれ週に2回程度だが足を運んでいる。

残念ながらこの分野は教育現場ではまだまだ未開拓のところが多いようだ。というか学校や教育の目的が履き違えられ,忘れ去られているケースが多すぎる。

今後少しでも社会でも取り上げられるべき問題だと思っている。





2020年7月3日

挑戦しにくい社会



このデータは近い将来におこる
新しい労働観を示したものだと思う。

右肩上がりなものをまとめると

①安定していて②給料がよく③これからも成長しそうな④休みの多い会社。

なるほど

自分のやりたいことができる仕事よりも安定した仕事について関心がある点も
面白い。

そのような企業がたくさんある時代を信じよう。