2020年8月3日

雑記

近年,部活動のあり方が大きく変わっているのはご存じだろうか。

 教員の多忙解消の一環として段階的に行われた規模の縮小。平日の活動時間,土日の活動制限,そして手当の事実上の減額など。最近ではコロナウイルスの感染拡大予防として相次ぐ大会の中止など,活動そのものの意義が再度問われるきっかけとなっている。

 実は,この部活動を巡る問題は考えると根が深い。社会構造の変化や学校全体のあり方も大きく関わっている。今回の雑記はただの昔を懐かしむものにはしたくない。僕はこの部活動削減は教育に新たな問題提起が浮かばせたと思っている。社会の変化の波に学校も対応を迫られている。この流れについて僕自身の考えを書いてみることにする。

多様化への対応をせまられる学校

 結局僕が言いたいのは,「部活動で味わう感動や学びを,授業やその他の活動で味わわせていく必要がある」ということだ。こんなの無理だろうという人がほとんどかもしれない。ただ部活動は教員の仕事としては今後の活動には期待できない。部活は10年後には無くなっているいるという教育研究者もいるくらいだ。
 部活を考える前に学校の価値観の変容について考えてみたい。今は社会全体が個人主義,もしくは個人の多様化があまりにも進みすぎていること。そのことで学校に対する価値観が大きく異なることで。「部活」に意義を見いだした人とそうでない人が多くいるのがそもそもの問題なのかもしれない。そもそも人間は多様である。その多様性が「なんでもあり」である場合集団は維持できない。組織もルールなしでは成しえない。その基本原理や社会集団に属するための第一段階として学校が存在しているはずであった。その基本原理を学ぶ場所が「教室」であり,「授業」であり,「部活」であった。この考えは今でも主流であるが,僕は今の学校は現在社会で言われている多様性を受け入れるための仕組みが整っていないと思っている。「教室に入れない子」「授業についていけない子」そして「部活に入れない子」,その他もろもろの学校に適応できない子に対する方針や考えまとまっていないのだ。集団に属することができない子どもがいる場合,環境作りは教員の最重要任務だ。それがその子の特性なのか個人のわがままなのか微妙な問題に直面する。これが本当に難しい。

・一定の規律をもった集団をつくる目的の学校。
・多様化を認めていく学校
 
 このジレンマは常にもあったのかもしれない。だが昨今の部活動のあり方が問題が話題になるにつれてより明るみにでてきたという感じがしている。

負担

 部活指導は,本当に難しい。顧問の裁量が大きい点、子どもの自由度が高い点,技術面を指導できない点は確かに教員の負担になる。逆に言うと教員のキャラクターや個性が生かせる場面が多く長い間講師を続けていた僕にとっては自分らしさが出せる楽しい場所であった。技術を学ぶ点などは確かに時間を要したが,それが負担だったかと言われると,そんなことはなかった。
 ただ周囲には,バスケの指導の難しさ,保護者対応の失敗や体力面などで顧問から外れている先生も多かったような覚えがある。対外試合などでせっかく仲良くなった先生も翌年になると変わっていたケースもあって残念なことも多かった。後にその理由を聞くと上記のような問題を抱えたことが多く部活動の難しさを痛感することも確かにあった。
 時間的な問題もあるだろう。以前はクラブチームを運営していた僕は生活のほとんどを練習時間に費やしていた。バスケは本当に好きでやっていた。思いだけで全て仕事をしていたように思える。当時は自分のことしか考えていなかったのかもしれない。それが正しい都すら思っていた。でも今になるとこれは確かに強要すべきするものではない,異動をする公務員であるという自覚が必要であった。組織が恒久的、永続的に続くものを作り上げなくてはいけなったことは今となっては反省材料である。引き継ぐ人にとっては同じようにやらなくてはいけないという負担があることを考えなくてはいけなかった。

部活削減とその後

 部活が削減されていくなかで,僕自身も部活のあり方を考えるきっかけになった。部活動で学んだ人間形成について代替する活動はないかということだ。全国レベルの上位の大会で活躍する生徒の表情や感動の会場の雰囲気は今後どのように味わわせたらよいのだろうか。違う道があるのだろうか。僕の中で模索が続いている。
 むしろ今問われているは,部活動をやらなかった先生たちかもしれない。本当に同じような感動や成長を見込めるのだろうか。ただ部活をやりたくなかったのか,他の方法に期待していたのか。
 あの時の感動を!なんていいう言い方はこの時代にはそぐわないだろう。確かにごく一部の人間に与えられた感動も不平等なのかもしれない。一般論,典型的という不確かなものに,メスが入ったのかもしれない。結局のところスポーツのあり方も変わってくるのかもしれない。今後の社会全体の動きも大きく関係していく学校であるからこそ,迅速に動く必要があるのだろう。子どもに接する思いや社会の流れに敏感であるという姿勢だけは今後も大切にしていきたい。