2020年12月22日

この年の終わりに


 新しい時代へのアップデート。変わらなきゃいけないもの 変わってはいけないもの 変わってほしいもの 変わらないでほしいもの

世界はそうやって動いている。ありがとう2020。

2020年9月21日

意思を受け継ぐ

知多のバスケットを支えた橋本先生が亡くなられました。

「きめられたことはさいごまでやる」

最後のメッセージは今のバスケットに携わる私たちにも向けられたものにも捉えられ,身が引き締まる思いだ。

何でも新しいことをはじめるときには
背負っているものを感じなくてはいけない。そういうのが自分はできず失敗を繰り返してきた。

先人から学ぶこと、絶対に忘れてはいけない。
そして新しい時代に対応した新しい仕組みを再構築する必要性も感じた。

できるだけ普遍的なもの,一過性にとどまらないモノ。
探求の日々が続く。

2020年9月19日

澤田先生のために

僕はミャンマーが好きだ。もうすでに5回は行った。
最初の旅行での澤田先生との出会いが僕をいつも海外の世界へ駆り立てる。

先生は外国の文化,違いをこよなく愛する人でした。
病床の際にも「やっぱり,海外はいい。海外はいいな」
と口癖に行っていた姿が忘れられません。

僕は外国に行かなくてはいけない。先生が見たかったモノを僕はみてみたい。
そう思ってミャンマーを旅している。

落ち込んだとき,うまくいかないとき。
僕を駆り立てる一つの信念や目標の一つだ。
外国に行って広い世界をみる。

行って何をする。とか,戻ってからどうすのか。
具体的なビジョンが求められるけれど。
「やっぱり,海外はいい。海外はいいな」の言葉に尽きるのかもしれない。

ありがとうございました。



2020年9月13日

雑記

中学の時 理科の先生が言ってたこと

「お前たちは本当にカッコいいとは何かを知らない。本当にカッコいいやつは星の名前を知っている。草の名前を知っている。俺みたいにw」

「絶対嘘だー。」と思ったのか、くだらない!と思ったのかはあまり覚えていないが、なぜか記憶に残ってる言葉だ。

たしかに言えることは
先生が言ったことは事実だったということだ。

最近はコロナで新しいこと始めなきゃとも思っていたところ。

部屋に眠っていた望遠鏡を取り出して星を眺めてみたかったり
秋の七草を巡りドライブをしよう。
そんな発想が浮かんだり

カッコつけるとか歳に合わないけれど
あの頃に感じた、なんとなくそうなのかも?という気持ちにかえりたくなった。




2020年8月23日

雑記

今後の動きについて様々な意見がでているが・・・。僕も色々書きたい。

僕自身は,コロナが収束してまたいつものような活動が戻ってくるとは思えない。そもそも人類が感染症対策というものを行わないまま文明を発展させてきたことが大きく世界を狂わせたと思う。だが今回はそれに気付いてしまった。そんな感じだ。

ソーシャルディスタンスという概念は経済のしくみそのものも変えてしまったと思う。例えば観客が必要なスポーツやコンサートなどの興行を一つとっても,会場そのものが感染症対策として作られていない。観客を最低一席分間隔を開けたとして,単純計算で売り上げは半分となる。今後そのような形で行っていくためには,現状の価格設定では継続することは難しい。

 ならば値段を倍にすればと考えるが,そこにその芸術性の価値が問われることになるだろう。値段の2倍は価値の2倍になるのか,そもそも高額になったチケットを購入するのだろうか・・・。

 10年後を考えよう。今後は感染症拡大防止対策の施設が作られていくだろうし,感染症のリスクを最小限に抑えたものだけがビジネスとして存続していくのではないだろうか。いつまでもいずれ収まるだろうの考えは通用しないと思う。このコロナ問題の長期化は開きかけたパンドラの箱をさらに大きく開いてしまったのではないだろうか。

働き方も大きく変わる。仕事を家に持ち込まないという考えのもとで,家庭での仕事環境ができていない人々もそうは言ってはいられなくなるだろう。

10年後を見据えて,早く動き出した企業,人が勝ち残っていくのだろうか。それとも・・・

2020年8月16日

雑記

 ■教育の目的について

人格の形成 平和的民主的国家の形成者 心身共に健康な国民の育成を期して行う

 以前から教育の目的がすり替わっていることは言われていたが,最近はさらにひどくなっているような気がする。社会への適応や社会に出る前の準備だとか・・・言っていることは正しいのだが,なんだがしっくりこない。そもそも現代社会から隔離されているはずの学校でなぜ社会に適応することを目的にする必要があるのか。学校に求められるものについて話をする時,そんな意見を聞く場面が多くなってきた。

 冒頭に書いた文章は教育基本法1条の内容をまとめたものだ。これも僕の考えなのだが,学校は社会を変えるためにもあるではないだろうか。社会を作り出すのは目の前の子ども達なのである。社会に取り込むというよりは社会に対して視点を増やすことが必要だと思う。「社会に適応するための学校」という位置づけは,僕にとって手段が目的となっている現象に思える。このままでは本来の学校の意義が失われてしまうのではなかろうか。

 そもそも学校の始まりとは何だろう。学校の始まりについては諸説あるとして,学問の場としてはっきり定義された最初の学校はプラトンによるアカデメイアが有名である。プラトンはソクラテスの死をきっかけに学校の必要性を感じたとも言われている。ソクラテスは社会を変えるために大人に訴えかけた。それには賛同するものも多かったが残念ながら権力に刃向かう人物として最後には毒を飲むことになった。「社会を変えるためには子どもから」というプラトンの意向からアカデメイアができたという説は学校の意義をしっかりと今に教えている。

 そう。学校には社会を変える力があるはずなんだ。この力が失われているだけなんだ。確かに社会に身につく技術や考えをもつことは大切だ。しかしながら,学校が全てそのような社会の仕組みにとらわれてるだけの場所になっているのもなんとなく悲しい。

 今,全ての業種や仕事は本来の力を失っているのかもしれない。そんなことも踏まえて僕はよく仕事について考えるようになった。職場や知人と話すと,多くの人が仕事に対する価値観が変わり始めていることに気付く。人生という大きなくくりが再考され,仕事に求めるもの,何を大切にするかという価値観が大きく変わり始めているのかもしれない。

 一つ言えることは,学校にできること,学校でできることを見極める大事な節目にあるということだ。新しい可能性も探していく必要もありそうだ。僕はこの仕事の可能性を信じている。確かに学校にも変化が必要だと思う。でも正直こういったのを外部から言われるはもう飽きた。だから僕は現場から発信する人間になっていきたい。


2020年8月14日

梅雨明けのこと



あ。ハートマークだ。

梅雨明け 僕がいつも停める駐車場から。
もっと早く気付いていたはずなのに
なんでも休憩って大切だね!


 

2020年8月8日

雑記

■ 変わらない。変えない。変えにくい。

 学校現場では恒久的,普遍的な考えが基本となっている。長い目で組織を考える視点はすばらしい。だが税金を投資して活動している点から,足並みをそろえる必要があり,これが活動のスピードが著しく遅くなることがよくある。このあたりを打破できる人材が優秀な人で,実は多くが切望しているところなのだ。だれかがやらなくては・・・。といつも思っているのだが目の前の仕事に追われ,通常の業務に溺れている。

■社会的立場の変化

 学校は以前に比べ立場が低くなったことが言える。学校は社会を変革する力や能力を育てる場所であるはずなのだが,そもそも社会のニーズに応えるための施設に捉えられるようになった。これは以前からそうであったが,どうも学校は社会変動に対応できない人間を育てているのではないかという疑問から,学校に責任をもとめるようになった。キャリア教育もその一環として始まった事業である。フリーター,ニートの原因は学校教育にあるのではないかという根本的な部分が問われるようになった。
 僕は,社会に適応する人間を育てるための学校であれば,それはレベルの低い目標だと思う。そもそも社会変革のための学校であったためなのに。教育の可能性が見失われているのは残念でならない。

■ロールモデルの崩壊
 
 時代を言ってもしょうが無いが,僕自身を振り返ると学校は何も教えてくれなかった。学校で学ぶべきものはもっとあったのではないか。そんな大人の問いが今現場に直接おりてきた。そもそも僕は学校から学んだものはあるのだろうか。学校から教えてもらうのことは少ない。結局学校のあり方がどうたらという問題でもないのか・・・。そんな疑問がよぎる。

■自由だからこそ伸びる子ども

「言われたとおりにやるだけじゃだめだ」ということを大人から「言われる」という矛盾。
教えてもらった方が安心、答えを安直に探す時代、探し求める楽しさよりよりも「安心を得るための答え」を最短距離を探すようになった。以前より自由になった。しかしこれによって今の時代に自立を促すのは最も難しいことなのかもしれない。


模索が続く・・・。

2020年8月3日

雑記

近年,部活動のあり方が大きく変わっているのはご存じだろうか。

 教員の多忙解消の一環として段階的に行われた規模の縮小。平日の活動時間,土日の活動制限,そして手当の事実上の減額など。最近ではコロナウイルスの感染拡大予防として相次ぐ大会の中止など,活動そのものの意義が再度問われるきっかけとなっている。

 実は,この部活動を巡る問題は考えると根が深い。社会構造の変化や学校全体のあり方も大きく関わっている。今回の雑記はただの昔を懐かしむものにはしたくない。僕はこの部活動削減は教育に新たな問題提起が浮かばせたと思っている。社会の変化の波に学校も対応を迫られている。この流れについて僕自身の考えを書いてみることにする。

多様化への対応をせまられる学校

 結局僕が言いたいのは,「部活動で味わう感動や学びを,授業やその他の活動で味わわせていく必要がある」ということだ。こんなの無理だろうという人がほとんどかもしれない。ただ部活動は教員の仕事としては今後の活動には期待できない。部活は10年後には無くなっているいるという教育研究者もいるくらいだ。
 部活を考える前に学校の価値観の変容について考えてみたい。今は社会全体が個人主義,もしくは個人の多様化があまりにも進みすぎていること。そのことで学校に対する価値観が大きく異なることで。「部活」に意義を見いだした人とそうでない人が多くいるのがそもそもの問題なのかもしれない。そもそも人間は多様である。その多様性が「なんでもあり」である場合集団は維持できない。組織もルールなしでは成しえない。その基本原理や社会集団に属するための第一段階として学校が存在しているはずであった。その基本原理を学ぶ場所が「教室」であり,「授業」であり,「部活」であった。この考えは今でも主流であるが,僕は今の学校は現在社会で言われている多様性を受け入れるための仕組みが整っていないと思っている。「教室に入れない子」「授業についていけない子」そして「部活に入れない子」,その他もろもろの学校に適応できない子に対する方針や考えまとまっていないのだ。集団に属することができない子どもがいる場合,環境作りは教員の最重要任務だ。それがその子の特性なのか個人のわがままなのか微妙な問題に直面する。これが本当に難しい。

・一定の規律をもった集団をつくる目的の学校。
・多様化を認めていく学校
 
 このジレンマは常にもあったのかもしれない。だが昨今の部活動のあり方が問題が話題になるにつれてより明るみにでてきたという感じがしている。

負担

 部活指導は,本当に難しい。顧問の裁量が大きい点、子どもの自由度が高い点,技術面を指導できない点は確かに教員の負担になる。逆に言うと教員のキャラクターや個性が生かせる場面が多く長い間講師を続けていた僕にとっては自分らしさが出せる楽しい場所であった。技術を学ぶ点などは確かに時間を要したが,それが負担だったかと言われると,そんなことはなかった。
 ただ周囲には,バスケの指導の難しさ,保護者対応の失敗や体力面などで顧問から外れている先生も多かったような覚えがある。対外試合などでせっかく仲良くなった先生も翌年になると変わっていたケースもあって残念なことも多かった。後にその理由を聞くと上記のような問題を抱えたことが多く部活動の難しさを痛感することも確かにあった。
 時間的な問題もあるだろう。以前はクラブチームを運営していた僕は生活のほとんどを練習時間に費やしていた。バスケは本当に好きでやっていた。思いだけで全て仕事をしていたように思える。当時は自分のことしか考えていなかったのかもしれない。それが正しい都すら思っていた。でも今になるとこれは確かに強要すべきするものではない,異動をする公務員であるという自覚が必要であった。組織が恒久的、永続的に続くものを作り上げなくてはいけなったことは今となっては反省材料である。引き継ぐ人にとっては同じようにやらなくてはいけないという負担があることを考えなくてはいけなかった。

部活削減とその後

 部活が削減されていくなかで,僕自身も部活のあり方を考えるきっかけになった。部活動で学んだ人間形成について代替する活動はないかということだ。全国レベルの上位の大会で活躍する生徒の表情や感動の会場の雰囲気は今後どのように味わわせたらよいのだろうか。違う道があるのだろうか。僕の中で模索が続いている。
 むしろ今問われているは,部活動をやらなかった先生たちかもしれない。本当に同じような感動や成長を見込めるのだろうか。ただ部活をやりたくなかったのか,他の方法に期待していたのか。
 あの時の感動を!なんていいう言い方はこの時代にはそぐわないだろう。確かにごく一部の人間に与えられた感動も不平等なのかもしれない。一般論,典型的という不確かなものに,メスが入ったのかもしれない。結局のところスポーツのあり方も変わってくるのかもしれない。今後の社会全体の動きも大きく関係していく学校であるからこそ,迅速に動く必要があるのだろう。子どもに接する思いや社会の流れに敏感であるという姿勢だけは今後も大切にしていきたい。

2020年7月18日

Antimaterialism

今回紹介する映画
デビット・フィンチャーの「ファイトクラブ」
映像もすばらしいが,今回は原作著者のパラニュークの視点を書きたい。

ネタバレ解説】映画『ファイト・クラブ』製作秘話&伏線・ラストシーン ...
過激な描写によって賛否がはっきりする映画だと思う。
映画を見る前に準備することは,この映画のもつ痛烈な社会批判だ。現代社会に対して,皮肉とユーモアでどんどんたたみかけてくる。
 物語の序盤から主人公が医者から不眠症をあしらわれたことをきっかけに,本当の苦しみと悩みを知るためにセミナーに訪れるという設定。こういったブラックユーモアの連続が視聴者の思考設定を狂わせる。

 この映画が公開された98年は,スターバックスやイケアそしてクリスピー・クリームドーナッツなど,当時日本ではほとんど浸透していなかった。これらの会社が当たり前のようにすでに出てきているところ,そして,こういったグローバル化がもたらす社会の画一化に対してすでに警鐘を鳴らしていている点や,これらがほぼ現実となっていることも考えると,現代社会に対する問題提起として,とても素晴らしい。

 他にも様々な描写があるが,僕は特にantimaterialism  (反物質至上主義)についての言及が好きだ。「モノに支配されること」に対して批判するタイラー。いつの時代にもこれは永遠のテーマだと思う。僕もアマゾンでショッピングをする時,必要か必要じゃないかとか,値段とか噂とか…。そんなことを考える時間があまりにも多すぎて嫌になることがある。現代はミニマリストなんていうモノに固執しない人々も出てきていて,この映画が訴えているものが現実となっているのかもしれない。

でも実はこのストーリー,antimaterialism自体も同時に批判している。
そもそも,モノには物質以上の権威が備わっており。個性表現の役割をもたせることができる。モノがもたらす権威までも否定した時。極端に言えば人間がモノによってもたらせる権威を除去し,人格(パーソナリティ)を無くした姿が描かれている。それが物語の後半にタイラーがつくりだす組織だ。この組織では,権威を否定し,命の価値も無にルール化される。映画では「名前」までもが否定されていた。この組織はモノに支配された人間と同様に,人間性を失った集団として描写されている。

つまり「モノや権威に支配されること」と「モノや権威から開放されること」はどちらも人間疎外につながる可能性があるということだ。
「支配」や「開放」などに囚われずに自分の意志と人格を尊重すること,モノがもつ「本質」と「権威」を見極めることがいかに大切であるかを教えてくれる。この辺りは普遍的なテーマなのでいつの時代にも魅力的な映画である理由が分かる。

2015年「ファイトクラブ2」がコミックで販売された。パラニュークの思想がさらに全面に表現され,前作と同様現代に対する警鐘やメッセージ性は色濃く表現されている。これまたパンチの効く作品だ。パラニュークが大好きな人のためにつくられたような内容で,複雑な展開も大衆受けは見込めない。もし映画化されても前作を超えるものはつくれないと思う。

ショッピングの増加とミニマリストなどのantimateriarismが再燃されるなか,もう一度人間性について考えるきっかけとなった。

2020年7月15日

不登校研修会

 今回の講習会は,コロナ禍における生徒・児童が感じる不安がテーマだった。冒頭では「休校中と学校再開後の子どもの変容について」問われ,恥ずかしながらそんなこと全く考えていなかった僕は,すぐにこの一ヶ月を振り返った。とにかく通常の授業へシフトすることしか考えず,日常を取り戻そうという気持ちでいっぱいだったのが本音である。今でもコロナに関する不安は現在進行形で,いつ児童生徒がコロナに感染するかわからないことは事実である。やもすれば休校になることも視野に入れながら綱渡りと手探りの生活を送っている。コロナへの不安が続いている点からも,子どもに直接与える影響についてはもっと長期的な見方が必要だと思う。
実際の現場では,子どもの心理的変化が見られたとしても,それらがコロナの因果関係があるのかは個人的には判断が難しいところだ。本当の変化はここからといったところだろうか。

  とはいうものの,休校が開けてから一ヶ月経つ。生徒がきちんとスタートが切れているかを考える視点は確かに必要だった。今回の講習会はそれを振り返るよいきっかけになったと言えよう。

内容としては
■休校中子ども達は結局何をしていたのか
 ①全般
  ・家庭の力の差が浮き彫りになった点,ゲームの動画配信が静かなブーム,様々な工夫で友だちと会うなど
 ②不登校児童・生徒
  ・友だちと日中に連絡がとりやすくなった,休憩・休息の時間にとらえた子どもいた,安心感を得た生徒も,特に変わらない生活を送ったなど 
■授業が再開されて
 ①全般
  ・小1と中1は苦しい。新しい授業形式に困惑。授業優先のカリキュラム編成。
 ②不登校
  ・来れるようになった生徒もいた。
■先行きの見えない点
 ①全般
  ・行事がなくなったことについて,部活がなくなったこと,慌てる大人をたくさん見た。政策の不透明さ,大人への不信,世界や社会が一変して変わることへワクワクしている子もいた。
 ②不登校
  ・あまり変わらない
 終盤では,教員のストレスについてなど論点が変わるところもあったが,確かに教員のストレスがもたらす子どもへの影響もあるのかもしれない。講演者側はそれらも読み取っていたのだろう。
  僕はは大丈夫だと思っていたらそれもまた怖いことだと反省した。

2020年7月13日

雑記

伝えたのか伝わったのか。
感受性が強い人ならさておき。人に伝えるのは難しい。聞いた時は良しとして,記憶に残りにくいものだ。

以前は話の長い人が多かった気がする。学校でも家族でも,内容がまとまってない話を聞くことが多かった。
僕の場合,父の話はとくに長かった。ラジオを作るまでには,まずラジオの周波数,磁力などの仕組みから話しだす。肝心の工作の楽しみを味わうまでに時間がかかった。でも聞かないと作らせてくれない。モーターで木製の小型のバイクをつくる時も、ロータス123で単純な計算式を入力をするときでも僕は頑張って父の話を聞いた。最後まで話しを聞くことで楽しみの作業を行うができたからだ。

中学校では両親と離れ,大人の話を聞くことがさらに多くなった。次第に長い話というものは当たり前に思うようになった。話の後にきっとご褒美があるのだろうと期待し,集中して耳を傾ける。見返りはどうであれ,当時聞かされる話はどんな話も純粋に受け入れていたような気がする。
確かにつまらない話だったのかもしれない。でも,僕はとにかく最後まで聞いてみようという気持ちもあったし,話によっては結局何が言いたいんだろう,といった要約みたいなものを頭の中でつくるときもあった。とりあえず聞いておこうという姿勢が高校生にもなると当たり前になってきた。

もちろん寝てしまったこともある。だがその度に申し訳ないという気持ちと,話を聞き逃したことがもったいないという気持ちでいっぱいだった記憶がある。

そもそも僕は以前から「この人は話が下手だ」とか「聞いてちゃいられらない」とか言ってすぐに寝るタイプではなかったと思う。今も講義などで、長い話がはじまると比較的寝てる人が多いが、幼少のころに身についた習慣は生かされている。話を聞くことで得したことがあるのかはさておき,その時間にその人とつながったような気持ちになることで今も講義に価値を見出していている。

今では考えられないが,僕はもともと話すことが苦手だった。
人前で話すと緊張して何も言えないことが多く,それは中学校でも高校でもあまり変わらなかった。だから長い話ができる人を尊敬していたところがあった。長い話が始まり,周囲が居眠りを始めても自分は起きていることが多かった。寝ていた友人の中には,話上手で饒舌な子が多く,あとでその子に話を聞くと「もう何を言うかほとんどわかったから」ということをよく言っていた。確かに僕は当時,話の流れを予測できることができなかった。そのこともあってか僕にとって話の展開はすべて新鮮に思えた。たとえ支離滅裂な内容であったとしても,話を追いかけるように思考を巡らせたことで興味や集中力が続くきっかけにもなっていた面もあった。

時は流れ,最近ではやたらとプレゼンの質が問われ,話の内容や伝え方がシステマティックになってきたと思う。抑揚,展開,問いかけのタイミング,飽きさせないための聞き手への実践や体験、聞き手同士の話合いを入れるなど,話し手は工夫をこらして内容を印象付けようと試行錯誤の時代になった。

今このわざとらしさは,僕の中で「飽き」を生んでいる。話し手の個性やキャラクターは以前よりも統制されるようになった。もちろん準備していることは本当に素晴らしいことだ。そもそも僕が最近聞いているのは不特定多数の大衆向けのものが多いわけだが,テクニックや展開の仕方はあまりにも画一化しているように見える。話の内容はますます簡潔になり,要点があまりにも絞られすぎて背景や理由付けが簡略化された講義が増えている。

話し手の能力が問われるのに対し,聞き手の力は問われない時代になったのかもしれない。
そもそも伝わるとは何なのだろうか。仮にそれが記憶に残ることを意味するものであれば前述したとおり,聞いたことなど人間はほとんど忘れるものだ。聞き手の理解の範疇におさまるもの,もしくは求める内容と話し手の伝えたい内容が偶然にも一致したものだけが記憶に残っているものだ。話が長いことは,退屈を生むにせよ理解が深まったり記憶に残るという点では,話の長さ自体にはあまり関係ないのかもしれない。
一方で,話の内容はともかく情熱や個性が理解されて聞き手が鼓舞される場合もある。新たなアイデアが浮かんだり,話のあとになんとなく前向きになっている場合もあるだろう。これらは伝わることとは別のことかも知れないが,これも話の長さと関係しているかと言われれば時と場合による。

伝えるが伝わったになる。これは偶然の産物に過ぎない。
聞き手の力,感受性,聞き手の理解が前提にある。伝わるプレゼンを追求する本が出回る現代において,話を聞く力とはいかなるものなのか,インプットを追求する機会がそもそも少ない気がする。現在に至っては,長い話から見いだせるものは殆ど皆無のように捉えられている。

こういう書き方をするとあたかも僕が聞き上手に見えてしまうが,僕も最近は人の話を聞かなくなった。ちょっと前まで人前で話せなかったあの頃の自分を忘れているのかもしれない。ラジオの作りかたを聞いたあの時のように,そのあとにご褒美があると信じてもう一度自分の聞く力について考えていくことにしよう。


2020年7月10日

雑記

昨今の教育問題を考えるとき,真っ先に取り上げられるのが不登校と外国にルーツをもつ子どもたちだ。

子どもが「社会の鏡」であるなら、これらは学校だけの問題ではなく社会構造のひずみによって生まれたものである。解決は容易ではない。対策や方針,実践と成功例も少なく文字通り手探りの対応に追われているのが現状だ。

だが、学校はそういった「罪のない」子どもを受け入れる場所である。僕はこの仕事を通じてますます社会矛盾を肌で感じるようになった。他にも貧富の差が学力の差になっている点とか、地域による子供の質の差とか言い出したらきりがない。数年で異動がある僕らの仕事は、誰しもが公教育の理想と現実の違いを目の当たりにし、困惑するものだ。

かといって悪いことだけではない。僕はこのような問題に直面した時、学校がもつ不思議な力を信じるようにもなった。
どんなに苦境の立場でも,前向きに生きている子どももいてびっくりすることがある。クラスで普通に過ごす子どもの中にも,実は家庭環境や複雑な状況だった子どもがいるのだ。

大きな違いは
その子が学校で「自分」と「仲間」を見つけ出していることだ。
この2つはかなり重要だと思う。学校だけでなく人間が社会生活を送る上で不可欠な考えだ。

僕は,最近この2つを発見させることが「教育」なのではないかと思うようになった。
学校は「教科を学ぶ場所」ではなく「自分を探す場所」であり「友達を見つける場所」なのだ。その環境作りが教師の仕事で,極端な話だがそれさえできていればいいとも思う。

こんなことを考えて,僕は今年の目標を国際理解教育・不登校児童生徒対応に設定した。
日本語教室の生徒との交流,そして市が運営する不登校児童を支援する施設にそれぞれ週に2回程度だが足を運んでいる。

残念ながらこの分野は教育現場ではまだまだ未開拓のところが多いようだ。というか学校や教育の目的が履き違えられ,忘れ去られているケースが多すぎる。

今後少しでも社会でも取り上げられるべき問題だと思っている。





2020年7月3日

挑戦しにくい社会



このデータは近い将来におこる
新しい労働観を示したものだと思う。

右肩上がりなものをまとめると

①安定していて②給料がよく③これからも成長しそうな④休みの多い会社。

なるほど

自分のやりたいことができる仕事よりも安定した仕事について関心がある点も
面白い。

そのような企業がたくさんある時代を信じよう。

2020年6月20日

海外は国内で発見できる。



努力は輝くことを教えてくれる。

映像もすばらしい。小山田さんは新しい日本を発見してくれる人だ。

2020年6月18日

CNN International: "CNN go there" promo



数年前に流れたCM

ジャーナリストの感情がストレートに出ててかっこいい。



なるほど

旅と報道は直結している概念なのか。



最後のリチャードクエストの渋い顔もグッとくる。

go there....

2020年6月17日

すきな写真



そっと手を触れた時に
なんとなく思いが伝わる。

余計な言葉はいらない。
些細な仕草はある意味アート。

2020年6月15日

好きな写真



自分しか見たことがない景色が誰にでもあるはず。

そこからみた世界の話
教えてほしいな。

2020年6月14日

2020年6月13日

頑張る人



日常が戻って来てほしい。
世界全体がおかしなことしてたら
逆に正しいことになる。

コロナから学んだことはあまりにも大きすぎる。

iosでようやく参戦!



好きな写真。

また、明日見れるだろうと行って、見ることができなかったエピソード素敵です。

綺麗なものは、写したかった宇宙飛行士。目指してものは宇宙ではなくて…。

ずっと携帯の壁紙にしてます。