2021年11月29日

未来の縮図



 ふと昼食会場を見下ろすと、そこは子どもだけの世界だった。

全国各地から集まったこどもたちが,それぞれが決められたルールに沿って行動している。特別な指示がなくても,注文から食事までの行程を瞬時に理解し,整然と列に並ぶ姿は、当たり前のこととはいえ,いささか不思議な光景に見えた。

判断と決断を学ぶってとても大切

どこに座って食べるか場所を選ぶ時にも,多少の妥協を受け入れ,同時にグループが重なりあったら,互いにゆずりあったり,食事の前に席を取るのか,注文してから席を探すのか,周囲を見ながら判断したり,先に席をとってるグループでは,荷物を見張る係を決めていたり,そもそも席を先にとっても良いのかどうかスタッフに聞くグループもいたり…・。

もちろん二階部分には教員がいて,何かあればすぐに対応できる環境ではある。それでも自分たちで考えながら,行動をする彼らを眺めていると,この空間はある意味で未来の縮図にも感じられた。

現代は個人の自由をできるだけ実現する世の中にしようという動きがある。

自分の好きなことを

自分の好きな時に

自分の好きな場所で

自分の好きな人と

自分の好きな方法で実行できる社会

少しずつ可能になってきている…。次の時代,子どもたちはどんなことを考え、どんな社会をつくるのか。彼らが描く未来を心から期待している。


2021年7月31日

アンダー〇〇の世界

U(アンダー)〇〇の世界

U15に引き続き県U13に今年も携わることになった。

この場合アンダー〇〇とは年齢のことを指すが世の中にはアンダーやオーバーなどの言葉があふれており,その住み分けをすることが多い。

ふと言葉の意味を考えていたときに

アンダーアチーバーとオーバーアチーバーという言葉が浮かんだ。

学校にはそんな基準で子どもたちの能力を測る仕組みがある。たしか,年度当初だろうか,学級開きとともに教室では学力テストと知能テストが行われ,その結果をもとにして能力を数値化する仕組みだ。テストをやる意義についての話は置いておくことにして,担任が学級を受け持つときの参考になる指標になっていることは確かである。

ここで注目したいのはそれぞれの児童生徒への対応だ。アンダーアチーバーとよばれる知能・能力が高いのにそれが実際の力に反映されていないケースには,その子の力を見いだすこと,オーバーアチーバーでは周囲の教育熱が強すぎることはないか,気をつけなくてはいけない。同じような環境の中でも子どもの捉えが違う場合,逆効果に転じる場合があることを忘れてはいけないだろう。

最近よく言われているのは,子どもの隠れた才能を伸ばす場面が必要という考えである。ともすれば大人にも同じことが言えるのかもしれない。教師の隠れた才能を見つけ出すことができれば,きっと現場はもっと活気づくのではないだろうか。

学校がめまぐるしく変化を遂げた現在では,以前よりも教師が本来の力を出し切ることができない時代になってきたように感じる。昔が良かったという結論に至るわけではないが,現代において大人も子どもも自分らしさを発見することが困難になったことは確かである。

今の教員は,仕事に対する情熱はあるはずだが,それを出し切れていないという点では,アンダーアチーバーでもあり,求められている仕事に対しては必要以上に努力して結果をだそうとしているオーバーアチーバーにも思えてくる。もちろん自分も例外でなく,環境の変化に対応するまでに右往左往している毎日だ。

何がアンダーで何がオーバーか?様々な見方があるので一概には言えないだろう。支離滅裂な考えにも聞こえてくるが,結局この指標はあくまでも処理能力のみをはかる知能テストとの関連にすぎない。現代に必要な能力が想像力,コミュニケーション能力のような数値ではかることができないようなものであれば,この指標を深く掘り下げる必要はないのだろう。でも,子どもだけでなく,育成したいという人や集団を考えた時に見るときに必要なことは,環境がアンダーアチーバーをつくっていないだろうかという視点である。

「君には隠された能力、秘められた力がある!」そんな言葉を言われるほうがいい人が案外いるのかもしれない。今後もこれを周囲と自分を考える時に考察する考えの一つにしていきたい。

2021年7月1日

トリミングされる世界

 全てはトリミングされる世界となった。


思い出なんて言葉はもう古い。ハイライトなんてかっこつけて言う人も増えてきているという。写真も動画もトリミング、トリミング、トリミング…。


2021年1月23日

そう。それがすべての親の本音

 あれはもう10年以上前の話だっただろうか

ずっと忘れない保護者からのクレームがあった。

「うちの息子は,チームで一番上手。一番やる気もあって,一番才能も努力もしている。一番頑張りたいと思っている。なのに頑張れないのは先生のせいです。」

 当時僕は,この言葉を聞いて正直あっけにとられた。何を言っているのかわからなくなり,とっさに母親を否定するような発言を繰り返した。結局電話は1時間以上にもおよび,言われたことに対して自分も熱くなっていいかえす始末。クレームの電話のはずが,電話を切ったあとは,保護者を言い負かせた感じもあってか,満足感すら覚えた。

 その後、教頭先生に連絡。

「思い切ったことやったなぁ,でもあんまり意味のなかったこと,あとでわかるぞ」

 とか言われて,複雑な気持ちになった。案の定,土日に保護者が来校し,教頭先生が長い時間をかけて対応をするという結果になった。

 今後の対策とか、その後どうしろとかは特になかった。ただ保護者の話を聞いただけの,確かに「あまり意味のない時間」を生み出しただけだった。

 教頭先生には本当に迷惑をかけた。しかし当時の僕は方針がずれたりするのが嫌だったし,そもそも生徒の気持ちを正しい方向にしたいというつもりで発言したものだった。

 そんなエピソードを笑い話にできるようになって1年後だっただろうか,飲み会でその話題になった。校長先生も興味をもちながら聞いていたようで,自分がどうしたらいいかを聞く機会があったので話をふってみた。

 かなりお酒も入っていたこと,自分の中でこの問題は解決していることだったので,助言は,あまり期待していなかった。だが,その時に言われた言葉は、鮮明と覚えている。今となっては自分の教育に対する考えの基準だ。

「すべての親が自分の子どもが一番だと思っている。それは育児から始まって、ずっと続くものだぞ。それが子育て。すべての母親の本音が聞けたと思って、これからがんばれ」

 信じられない概念だった。確かに今までのクレームをふり返るとそういった考えがもとになっていることに気がついた。今では当たり前だと思っているが,本当に気づいてよかったと思っている。

 学校が変わり,同じような保護者に幾度ともなく遭遇した。でも同じ失敗はその後繰り返していない。むしろ,保護者を味方にすらできるようにもなってきた。

 久しぶりに再会した教頭先生にそのことを報告した。

「失敗だと思ったなら、成長だな。でもあの時は結構めんどくさかったぞ」

なんて笑いながら言われた。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

学校はおもしろい。やっぱり自分自身も含め人間を鍛える場所なのだと思ってこれからもがんばりたい。


2020年12月22日

この年の終わりに


 新しい時代へのアップデート。変わらなきゃいけないもの 変わってはいけないもの 変わってほしいもの 変わらないでほしいもの

世界はそうやって動いている。ありがとう2020。

2020年9月21日

意思を受け継ぐ

知多のバスケットを支えた橋本先生が亡くなられました。

「きめられたことはさいごまでやる」

最後のメッセージは今のバスケットに携わる私たちにも向けられたものにも捉えられ,身が引き締まる思いだ。

何でも新しいことをはじめるときには
背負っているものを感じなくてはいけない。そういうのが自分はできず失敗を繰り返してきた。

先人から学ぶこと、絶対に忘れてはいけない。
そして新しい時代に対応した新しい仕組みを再構築する必要性も感じた。

できるだけ普遍的なもの,一過性にとどまらないモノ。
探求の日々が続く。

2020年9月19日

澤田先生のために

僕はミャンマーが好きだ。もうすでに5回は行った。
最初の旅行での澤田先生との出会いが僕をいつも海外の世界へ駆り立てる。

先生は外国の文化,違いをこよなく愛する人でした。
病床の際にも「やっぱり,海外はいい。海外はいいな」
と口癖に行っていた姿が忘れられません。

僕は外国に行かなくてはいけない。先生が見たかったモノを僕はみてみたい。
そう思ってミャンマーを旅している。

落ち込んだとき,うまくいかないとき。
僕を駆り立てる一つの信念や目標の一つだ。
外国に行って広い世界をみる。

行って何をする。とか,戻ってからどうすのか。
具体的なビジョンが求められるけれど。
「やっぱり,海外はいい。海外はいいな」の言葉に尽きるのかもしれない。

ありがとうございました。



2020年9月13日

雑記

中学の時 理科の先生が言ってたこと

「お前たちは本当にカッコいいとは何かを知らない。本当にカッコいいやつは星の名前を知っている。草の名前を知っている。俺みたいにw」

「絶対嘘だー。」と思ったのか、くだらない!と思ったのかはあまり覚えていないが、なぜか記憶に残ってる言葉だ。

たしかに言えることは
先生が言ったことは事実だったということだ。

最近はコロナで新しいこと始めなきゃとも思っていたところ。

部屋に眠っていた望遠鏡を取り出して星を眺めてみたかったり
秋の七草を巡りドライブをしよう。
そんな発想が浮かんだり

カッコつけるとか歳に合わないけれど
あの頃に感じた、なんとなくそうなのかも?という気持ちにかえりたくなった。




2020年8月23日

雑記

今後の動きについて様々な意見がでているが・・・。僕も色々書きたい。

僕自身は,コロナが収束してまたいつものような活動が戻ってくるとは思えない。そもそも人類が感染症対策というものを行わないまま文明を発展させてきたことが大きく世界を狂わせたと思う。だが今回はそれに気付いてしまった。そんな感じだ。

ソーシャルディスタンスという概念は経済のしくみそのものも変えてしまったと思う。例えば観客が必要なスポーツやコンサートなどの興行を一つとっても,会場そのものが感染症対策として作られていない。観客を最低一席分間隔を開けたとして,単純計算で売り上げは半分となる。今後そのような形で行っていくためには,現状の価格設定では継続することは難しい。

 ならば値段を倍にすればと考えるが,そこにその芸術性の価値が問われることになるだろう。値段の2倍は価値の2倍になるのか,そもそも高額になったチケットを購入するのだろうか・・・。

 10年後を考えよう。今後は感染症拡大防止対策の施設が作られていくだろうし,感染症のリスクを最小限に抑えたものだけがビジネスとして存続していくのではないだろうか。いつまでもいずれ収まるだろうの考えは通用しないと思う。このコロナ問題の長期化は開きかけたパンドラの箱をさらに大きく開いてしまったのではないだろうか。

働き方も大きく変わる。仕事を家に持ち込まないという考えのもとで,家庭での仕事環境ができていない人々もそうは言ってはいられなくなるだろう。

10年後を見据えて,早く動き出した企業,人が勝ち残っていくのだろうか。それとも・・・

2020年8月16日

雑記

 ■教育の目的について

人格の形成 平和的民主的国家の形成者 心身共に健康な国民の育成を期して行う

 以前から教育の目的がすり替わっていることは言われていたが,最近はさらにひどくなっているような気がする。社会への適応や社会に出る前の準備だとか・・・言っていることは正しいのだが,なんだがしっくりこない。そもそも現代社会から隔離されているはずの学校でなぜ社会に適応することを目的にする必要があるのか。学校に求められるものについて話をする時,そんな意見を聞く場面が多くなってきた。

 冒頭に書いた文章は教育基本法1条の内容をまとめたものだ。これも僕の考えなのだが,学校は社会を変えるためにもあるではないだろうか。社会を作り出すのは目の前の子ども達なのである。社会に取り込むというよりは社会に対して視点を増やすことが必要だと思う。「社会に適応するための学校」という位置づけは,僕にとって手段が目的となっている現象に思える。このままでは本来の学校の意義が失われてしまうのではなかろうか。

 そもそも学校の始まりとは何だろう。学校の始まりについては諸説あるとして,学問の場としてはっきり定義された最初の学校はプラトンによるアカデメイアが有名である。プラトンはソクラテスの死をきっかけに学校の必要性を感じたとも言われている。ソクラテスは社会を変えるために大人に訴えかけた。それには賛同するものも多かったが残念ながら権力に刃向かう人物として最後には毒を飲むことになった。「社会を変えるためには子どもから」というプラトンの意向からアカデメイアができたという説は学校の意義をしっかりと今に教えている。

 そう。学校には社会を変える力があるはずなんだ。この力が失われているだけなんだ。確かに社会に身につく技術や考えをもつことは大切だ。しかしながら,学校が全てそのような社会の仕組みにとらわれてるだけの場所になっているのもなんとなく悲しい。

 今,全ての業種や仕事は本来の力を失っているのかもしれない。そんなことも踏まえて僕はよく仕事について考えるようになった。職場や知人と話すと,多くの人が仕事に対する価値観が変わり始めていることに気付く。人生という大きなくくりが再考され,仕事に求めるもの,何を大切にするかという価値観が大きく変わり始めているのかもしれない。

 一つ言えることは,学校にできること,学校でできることを見極める大事な節目にあるということだ。新しい可能性も探していく必要もありそうだ。僕はこの仕事の可能性を信じている。確かに学校にも変化が必要だと思う。でも正直こういったのを外部から言われるはもう飽きた。だから僕は現場から発信する人間になっていきたい。


2020年8月14日

梅雨明けのこと



あ。ハートマークだ。

梅雨明け 僕がいつも停める駐車場から。
もっと早く気付いていたはずなのに
なんでも休憩って大切だね!


 

2020年8月8日

雑記

■ 変わらない。変えない。変えにくい。

 学校現場では恒久的,普遍的な考えが基本となっている。長い目で組織を考える視点はすばらしい。だが税金を投資して活動している点から,足並みをそろえる必要があり,これが活動のスピードが著しく遅くなることがよくある。このあたりを打破できる人材が優秀な人で,実は多くが切望しているところなのだ。だれかがやらなくては・・・。といつも思っているのだが目の前の仕事に追われ,通常の業務に溺れている。

■社会的立場の変化

 学校は以前に比べ立場が低くなったことが言える。学校は社会を変革する力や能力を育てる場所であるはずなのだが,そもそも社会のニーズに応えるための施設に捉えられるようになった。これは以前からそうであったが,どうも学校は社会変動に対応できない人間を育てているのではないかという疑問から,学校に責任をもとめるようになった。キャリア教育もその一環として始まった事業である。フリーター,ニートの原因は学校教育にあるのではないかという根本的な部分が問われるようになった。
 僕は,社会に適応する人間を育てるための学校であれば,それはレベルの低い目標だと思う。そもそも社会変革のための学校であったためなのに。教育の可能性が見失われているのは残念でならない。

■ロールモデルの崩壊
 
 時代を言ってもしょうが無いが,僕自身を振り返ると学校は何も教えてくれなかった。学校で学ぶべきものはもっとあったのではないか。そんな大人の問いが今現場に直接おりてきた。そもそも僕は学校から学んだものはあるのだろうか。学校から教えてもらうのことは少ない。結局学校のあり方がどうたらという問題でもないのか・・・。そんな疑問がよぎる。

■自由だからこそ伸びる子ども

「言われたとおりにやるだけじゃだめだ」ということを大人から「言われる」という矛盾。
教えてもらった方が安心、答えを安直に探す時代、探し求める楽しさよりよりも「安心を得るための答え」を最短距離を探すようになった。以前より自由になった。しかしこれによって今の時代に自立を促すのは最も難しいことなのかもしれない。


模索が続く・・・。