2020年7月10日

雑記

昨今の教育問題を考えるとき,真っ先に取り上げられるのが不登校と外国にルーツをもつ子どもたちだ。

子どもが「社会の鏡」であるなら、これらは学校だけの問題ではなく社会構造のひずみによって生まれたものである。解決は容易ではない。対策や方針,実践と成功例も少なく文字通り手探りの対応に追われているのが現状だ。

だが、学校はそういった「罪のない」子どもを受け入れる場所である。僕はこの仕事を通じてますます社会矛盾を肌で感じるようになった。他にも貧富の差が学力の差になっている点とか、地域による子供の質の差とか言い出したらきりがない。数年で異動がある僕らの仕事は、誰しもが公教育の理想と現実の違いを目の当たりにし、困惑するものだ。

かといって悪いことだけではない。僕はこのような問題に直面した時、学校がもつ不思議な力を信じるようにもなった。
どんなに苦境の立場でも,前向きに生きている子どももいてびっくりすることがある。クラスで普通に過ごす子どもの中にも,実は家庭環境や複雑な状況だった子どもがいるのだ。

大きな違いは
その子が学校で「自分」と「仲間」を見つけ出していることだ。
この2つはかなり重要だと思う。学校だけでなく人間が社会生活を送る上で不可欠な考えだ。

僕は,最近この2つを発見させることが「教育」なのではないかと思うようになった。
学校は「教科を学ぶ場所」ではなく「自分を探す場所」であり「友達を見つける場所」なのだ。その環境作りが教師の仕事で,極端な話だがそれさえできていればいいとも思う。

こんなことを考えて,僕は今年の目標を国際理解教育・不登校児童生徒対応に設定した。
日本語教室の生徒との交流,そして市が運営する不登校児童を支援する施設にそれぞれ週に2回程度だが足を運んでいる。

残念ながらこの分野は教育現場ではまだまだ未開拓のところが多いようだ。というか学校や教育の目的が履き違えられ,忘れ去られているケースが多すぎる。

今後少しでも社会でも取り上げられるべき問題だと思っている。