2020年7月13日

雑記

伝えたのか伝わったのか。
感受性が強い人ならさておき。人に伝えるのは難しい。聞いた時は良しとして,記憶に残りにくいものだ。

以前は話の長い人が多かった気がする。学校でも家族でも,内容がまとまってない話を聞くことが多かった。
僕の場合,父の話はとくに長かった。ラジオを作るまでには,まずラジオの周波数,磁力などの仕組みから話しだす。肝心の工作の楽しみを味わうまでに時間がかかった。でも聞かないと作らせてくれない。モーターで木製の小型のバイクをつくる時も、ロータス123で単純な計算式を入力をするときでも僕は頑張って父の話を聞いた。最後まで話しを聞くことで楽しみの作業を行うができたからだ。

中学校では両親と離れ,大人の話を聞くことがさらに多くなった。次第に長い話というものは当たり前に思うようになった。話の後にきっとご褒美があるのだろうと期待し,集中して耳を傾ける。見返りはどうであれ,当時聞かされる話はどんな話も純粋に受け入れていたような気がする。
確かにつまらない話だったのかもしれない。でも,僕はとにかく最後まで聞いてみようという気持ちもあったし,話によっては結局何が言いたいんだろう,といった要約みたいなものを頭の中でつくるときもあった。とりあえず聞いておこうという姿勢が高校生にもなると当たり前になってきた。

もちろん寝てしまったこともある。だがその度に申し訳ないという気持ちと,話を聞き逃したことがもったいないという気持ちでいっぱいだった記憶がある。

そもそも僕は以前から「この人は話が下手だ」とか「聞いてちゃいられらない」とか言ってすぐに寝るタイプではなかったと思う。今も講義などで、長い話がはじまると比較的寝てる人が多いが、幼少のころに身についた習慣は生かされている。話を聞くことで得したことがあるのかはさておき,その時間にその人とつながったような気持ちになることで今も講義に価値を見出していている。

今では考えられないが,僕はもともと話すことが苦手だった。
人前で話すと緊張して何も言えないことが多く,それは中学校でも高校でもあまり変わらなかった。だから長い話ができる人を尊敬していたところがあった。長い話が始まり,周囲が居眠りを始めても自分は起きていることが多かった。寝ていた友人の中には,話上手で饒舌な子が多く,あとでその子に話を聞くと「もう何を言うかほとんどわかったから」ということをよく言っていた。確かに僕は当時,話の流れを予測できることができなかった。そのこともあってか僕にとって話の展開はすべて新鮮に思えた。たとえ支離滅裂な内容であったとしても,話を追いかけるように思考を巡らせたことで興味や集中力が続くきっかけにもなっていた面もあった。

時は流れ,最近ではやたらとプレゼンの質が問われ,話の内容や伝え方がシステマティックになってきたと思う。抑揚,展開,問いかけのタイミング,飽きさせないための聞き手への実践や体験、聞き手同士の話合いを入れるなど,話し手は工夫をこらして内容を印象付けようと試行錯誤の時代になった。

今このわざとらしさは,僕の中で「飽き」を生んでいる。話し手の個性やキャラクターは以前よりも統制されるようになった。もちろん準備していることは本当に素晴らしいことだ。そもそも僕が最近聞いているのは不特定多数の大衆向けのものが多いわけだが,テクニックや展開の仕方はあまりにも画一化しているように見える。話の内容はますます簡潔になり,要点があまりにも絞られすぎて背景や理由付けが簡略化された講義が増えている。

話し手の能力が問われるのに対し,聞き手の力は問われない時代になったのかもしれない。
そもそも伝わるとは何なのだろうか。仮にそれが記憶に残ることを意味するものであれば前述したとおり,聞いたことなど人間はほとんど忘れるものだ。聞き手の理解の範疇におさまるもの,もしくは求める内容と話し手の伝えたい内容が偶然にも一致したものだけが記憶に残っているものだ。話が長いことは,退屈を生むにせよ理解が深まったり記憶に残るという点では,話の長さ自体にはあまり関係ないのかもしれない。
一方で,話の内容はともかく情熱や個性が理解されて聞き手が鼓舞される場合もある。新たなアイデアが浮かんだり,話のあとになんとなく前向きになっている場合もあるだろう。これらは伝わることとは別のことかも知れないが,これも話の長さと関係しているかと言われれば時と場合による。

伝えるが伝わったになる。これは偶然の産物に過ぎない。
聞き手の力,感受性,聞き手の理解が前提にある。伝わるプレゼンを追求する本が出回る現代において,話を聞く力とはいかなるものなのか,インプットを追求する機会がそもそも少ない気がする。現在に至っては,長い話から見いだせるものは殆ど皆無のように捉えられている。

こういう書き方をするとあたかも僕が聞き上手に見えてしまうが,僕も最近は人の話を聞かなくなった。ちょっと前まで人前で話せなかったあの頃の自分を忘れているのかもしれない。ラジオの作りかたを聞いたあの時のように,そのあとにご褒美があると信じてもう一度自分の聞く力について考えていくことにしよう。