2021年3月14日
2021年1月23日
そう。それがすべての親の本音
あれはもう10年以上前の話だっただろうか
ずっと忘れない保護者からのクレームがあった。
「うちの息子は,チームで一番上手。一番やる気もあって,一番才能も努力もしている。一番頑張りたいと思っている。なのに頑張れないのは先生のせいです。」
当時僕は,この言葉を聞いて正直あっけにとられた。何を言っているのかわからなくなり,とっさに母親を否定するような発言を繰り返した。結局電話は1時間以上にもおよび,言われたことに対して自分も熱くなっていいかえす始末。クレームの電話のはずが,電話を切ったあとは,保護者を言い負かせた感じもあってか,満足感すら覚えた。
その後、教頭先生に連絡。
「思い切ったことやったなぁ,でもあんまり意味のなかったこと,あとでわかるぞ」
とか言われて,複雑な気持ちになった。案の定,土日に保護者が来校し,教頭先生が長い時間をかけて対応をするという結果になった。
今後の対策とか、その後どうしろとかは特になかった。ただ保護者の話を聞いただけの,確かに「あまり意味のない時間」を生み出しただけだった。
教頭先生には本当に迷惑をかけた。しかし当時の僕は方針がずれたりするのが嫌だったし,そもそも生徒の気持ちを正しい方向にしたいというつもりで発言したものだった。
そんなエピソードを笑い話にできるようになって1年後だっただろうか,飲み会でその話題になった。校長先生も興味をもちながら聞いていたようで,自分がどうしたらいいかを聞く機会があったので話をふってみた。
かなりお酒も入っていたこと,自分の中でこの問題は解決していることだったので,助言は,あまり期待していなかった。だが,その時に言われた言葉は、鮮明と覚えている。今となっては自分の教育に対する考えの基準だ。
「すべての親が自分の子どもが一番だと思っている。それは育児から始まって、ずっと続くものだぞ。それが子育て。すべての母親の本音が聞けたと思って、これからがんばれ」
信じられない概念だった。確かに今までのクレームをふり返るとそういった考えがもとになっていることに気がついた。今では当たり前だと思っているが,本当に気づいてよかったと思っている。
学校が変わり,同じような保護者に幾度ともなく遭遇した。でも同じ失敗はその後繰り返していない。むしろ,保護者を味方にすらできるようにもなってきた。
久しぶりに再会した教頭先生にそのことを報告した。
「失敗だと思ったなら、成長だな。でもあの時は結構めんどくさかったぞ」
なんて笑いながら言われた。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
学校はおもしろい。やっぱり自分自身も含め人間を鍛える場所なのだと思ってこれからもがんばりたい。
2020年12月22日
2020年9月21日
意思を受け継ぐ
2020年9月19日
澤田先生のために
2020年9月13日
雑記
2020年8月23日
雑記
今後の動きについて様々な意見がでているが・・・。僕も色々書きたい。
僕自身は,コロナが収束してまたいつものような活動が戻ってくるとは思えない。そもそも人類が感染症対策というものを行わないまま文明を発展させてきたことが大きく世界を狂わせたと思う。だが今回はそれに気付いてしまった。そんな感じだ。
ソーシャルディスタンスという概念は経済のしくみそのものも変えてしまったと思う。例えば観客が必要なスポーツやコンサートなどの興行を一つとっても,会場そのものが感染症対策として作られていない。観客を最低一席分間隔を開けたとして,単純計算で売り上げは半分となる。今後そのような形で行っていくためには,現状の価格設定では継続することは難しい。
ならば値段を倍にすればと考えるが,そこにその芸術性の価値が問われることになるだろう。値段の2倍は価値の2倍になるのか,そもそも高額になったチケットを購入するのだろうか・・・。
10年後を考えよう。今後は感染症拡大防止対策の施設が作られていくだろうし,感染症のリスクを最小限に抑えたものだけがビジネスとして存続していくのではないだろうか。いつまでもいずれ収まるだろうの考えは通用しないと思う。このコロナ問題の長期化は開きかけたパンドラの箱をさらに大きく開いてしまったのではないだろうか。
働き方も大きく変わる。仕事を家に持ち込まないという考えのもとで,家庭での仕事環境ができていない人々もそうは言ってはいられなくなるだろう。
10年後を見据えて,早く動き出した企業,人が勝ち残っていくのだろうか。それとも・・・
2020年8月16日
雑記
■教育の目的について
人格の形成 平和的民主的国家の形成者 心身共に健康な国民の育成を期して行う
以前から教育の目的がすり替わっていることは言われていたが,最近はさらにひどくなっているような気がする。社会への適応や社会に出る前の準備だとか・・・言っていることは正しいのだが,なんだがしっくりこない。そもそも現代社会から隔離されているはずの学校でなぜ社会に適応することを目的にする必要があるのか。学校に求められるものについて話をする時,そんな意見を聞く場面が多くなってきた。
冒頭に書いた文章は教育基本法1条の内容をまとめたものだ。これも僕の考えなのだが,学校は社会を変えるためにもあるではないだろうか。社会を作り出すのは目の前の子ども達なのである。社会に取り込むというよりは社会に対して視点を増やすことが必要だと思う。「社会に適応するための学校」という位置づけは,僕にとって手段が目的となっている現象に思える。このままでは本来の学校の意義が失われてしまうのではなかろうか。
そもそも学校の始まりとは何だろう。学校の始まりについては諸説あるとして,学問の場としてはっきり定義された最初の学校はプラトンによるアカデメイアが有名である。プラトンはソクラテスの死をきっかけに学校の必要性を感じたとも言われている。ソクラテスは社会を変えるために大人に訴えかけた。それには賛同するものも多かったが残念ながら権力に刃向かう人物として最後には毒を飲むことになった。「社会を変えるためには子どもから」というプラトンの意向からアカデメイアができたという説は学校の意義をしっかりと今に教えている。
そう。学校には社会を変える力があるはずなんだ。この力が失われているだけなんだ。確かに社会に身につく技術や考えをもつことは大切だ。しかしながら,学校が全てそのような社会の仕組みにとらわれてるだけの場所になっているのもなんとなく悲しい。
今,全ての業種や仕事は本来の力を失っているのかもしれない。そんなことも踏まえて僕はよく仕事について考えるようになった。職場や知人と話すと,多くの人が仕事に対する価値観が変わり始めていることに気付く。人生という大きなくくりが再考され,仕事に求めるもの,何を大切にするかという価値観が大きく変わり始めているのかもしれない。
一つ言えることは,学校にできること,学校でできることを見極める大事な節目にあるということだ。新しい可能性も探していく必要もありそうだ。僕はこの仕事の可能性を信じている。確かに学校にも変化が必要だと思う。でも正直こういったのを外部から言われるはもう飽きた。だから僕は現場から発信する人間になっていきたい。
2020年8月14日
2020年8月8日
雑記
■ 変わらない。変えない。変えにくい。
2020年8月3日
雑記
2020年7月18日
Antimaterialism


